変わらないという選択肢は悪なのか?

はじめに

まず最初にこれは口論から発したぼくの納得し難い憤懣なる感情のままに書き綴ったポエムであることをお知らせする。 脈絡や文章として正しい形になっているか不明だが感情のままに書き綴っているのでその点はご容赦願いたい。 なお書き終えた段階で4200文字を超える長大な💩ポエムなので読む価値は全く持ってない。 以上を踏まえた上で読むのなら読んでくれるといい。

注意事項

なお、この飲み会はヌーラボ忘年会とは無関係です。 むしろその後に起こった事件でした。 時系列的に勘ぐる人が出そうなので訂正だけ入れておきます。

本題

先日、ちょっとしたイベントにて知人と口喧嘩をした結果、ボクの中である種の決意めいたものが生まれたので書き残しておく。 あくまで内容が主観的なものなので相手の言い分もあるし、そもそもボク自身も自分が絶対に正しいとは思っていない。 相手の言い分にも一理あるとは考えてはいる、とはいえそう思いつつも納得し難く常々これらのことが念頭にあったため書き記しておこうと思う。

きっかけは些細なことで至極どうでもいい内容から口論へと発展したというだけの話だ。 当然そのような内容にどちらの意見が間違っている、あっているというようなことではなくて 相手も意見を押し付けているのにぼくの意見を押し付けるのがいけないのか?が全く理解できないし納得いかなかったということだ。

先日飲み会に参加し、その会が終わったあとに知人から「飲みにきてくれた人にお酒を注ぎにいかないのは失礼だ」と怒られてしまい 「ああ申し訳ない、失礼だったな」とボク自身がこの手のマナーや礼儀が苦手なことだというのもあり「その通りですね、すみませんでした」と反省を口にしたのですが その後もあまりにも一方的に捲し立てられるように言われたため 「いやいやそれならぼくも言わせてもらうがあなただって飲み会の余興でぼくらが散々こうしてくれ、ああしてくれと頼んだのに協力してくれなかったではないか」 というような言い返しをさせてもらった。

ボク個人として期待したのは「それはすまなかった」と相手から一言もらうことが出来ればそれでこの件に含むものはないし、根に持つこともないだろうと考えてのことだったのだがこれが口論の火種になってしまった。

知人が場を盛り上げるためのサプライズとして協力してくれなかったのだろうとはぼくも脳裏には浮かんでいたのだが 「そんなことで人生乗り切れるか!杓子定規に物事が進めるな!甘ったれたことをいっているんじゃない、人舐めるな!!!」というようなことを言われてぼくもカチンときてしまった。

元々この知人とは考えが異なるのはわかっていたし、それはぼくにはない部分だとも思っていたことから根底にある価値観は異なるがある一定の理解は示す程度には思っていたのだ。 だが、それにしたって「人生」という言葉を使えばなにを言ってもいいのか?ぼくたちが必死でやっていることをぶち壊す免罪符になるのか?とボクにとっての導火線に火が着いてしまったのだ。

その後は双方の意見は真っ向から衝突することとなる。 知人が「イレギュラーは当然発生し得ることなのだからそれを想定して動くのがお前たちの仕事だろう」と言えば ぼくは「そもそもこういう催しをするので事前に概要を話していたのにきちんと話した通りに動くどころか、何故妨害するようなことをしたのか」と返し 口論はエスカレートする自体となる。 全く関係のない人からすれば実にどうでもいい内容だがぼく個人にとっては承服しかねる思い出いっぱいだったのだ。

結局ボクは相手の前提としている状況を「根底となる考えや思想がボク自身と違いすぎて理解できない」と判断したため 「わかりました、ぼくにはあなたの意見が理解できないことがわかったのでもうこの話はやめましょう。あなたはあなたの論理で動けばいい、ぼくには全く持って理解できないけどもそれはそれでいいです。」と返す段になり更に炎上。

それを見かねた別の知人が「どちらの言い分も間違いではないが今は冷静でないし、お酒も入っているから平行線でこの話しは交わることがない。とにかくこの話題はやめよう」と仲裁するにいたりようやくのことでひとまずの口論は中断される流れと相成りました。 その際に「今日のところは仲裁者の顔を立てて自分が折れてやるが、次はないぞ」と相手が吐き捨てるようにいったのは今でも承服し難い思いです。 むしろ、それはこちらの台詞だと。

その後、知人と別れたあとで仲裁をしてくれた知人から「きみの言い分はわかるがもう少し相手の意見を聞き入れるべきだと思う、相手の意見に壁をしてあなたはあなた、ぼくはぼく…というようなことは良くない。視野狭窄のように感じられる」と言われたのですが

「そもそもぼくだけが悪いのか?確かにぼくは自覚する限りにおいても視野狭窄的だし、相手の意見に壁をして突っぱねていたけども、相手の意見を聞き入れていないのは相手も同じではないか。」

と感じたし、大いに不服に思いました。

お酒を注ぎにいかなかったことを咎められなければぼくも言い返そうなどとは思わなかったでしょうし ぼくが言い返さなければ知人もこのように怒りはしなかったでしょう。

確かに事前に説明した際に微に入り細を穿つように念を押したか?と言われれば残念ながらぼく自身も否定せざるを得ないのが正直なところです。

ただ反論させてもらうならぼくは自分が気遣いのできない人間だと理解しています、だからこそそれ以外のところで補おうとしていますし、任されたことを自分にできる範囲でカバーしていたわけです。 相手からすればそれじゃいかんだろ!ということなのかもしれませんが、そんなことはぼくの知ったことじゃあありません。

あるいは、ぼくが事前に「こういう理由で余興を行うのでどうかその指示通りに行動して欲しい」と強く念を押していればこのようなことにはならなかったのではないか?とは思うところがあります。 ですが同時にこうも考えてしまうのです 「相手の意見は相手の意見、ぼくにはぼくの意見があって何故いけないのか?」、と。

仲裁した知人に「きみは苦手な領域に対して踏み込むことをしない、知人はそのことに対してもっと苦手な領域へ、未踏領域へと足を広げろ、踏み込んでいけ!と怒っているのだと感じた。誰もが嫌な思いをしながらそれを成し遂げているのだ」と言われたのです。 なるほど、確かにぼくは興味のある分野に対してだけ手を伸ばす傾向が非常に強いです。 それは例えばWeb技術であったり、漫画やアニメ、ゲームであったり、あるいは歴史や政治であるわけです。

ですが、そもそも興味が明確にない、そして苦手な思いをする必要性が一体どこにあるのだろうかと考えることはないでしょうか? 苦手なものは苦手としてそもそも関わらなければいいですし、敢えて踏み込んでいく理由がどこにあるんでしょうか? そもそも苦手って克服しないといけないものでしょうか?得意な分野を伸ばせばいいのではないですか?あるいは別の部分でカバーすれば問題ないではないですか? よく就職時などに「最初の3年間は我慢しなさい、そうでないと何も身につきません」などと嘘をぶっこいてますが本当にそうですか? 我慢することや苦手を克服する美学にあなたたちが酔いしれてるだけじゃないと何故いい切れるのですか?

この手の言い返しをすると多くの場合「わかった、もういい。」というようなお前にはほとほと呆れたといった形の返答を受けますが それはあなたがたがいうところの相手の意見に壁をする行為と如何ほど違うというのでしょうか? 屁理屈をこねているという自覚はありますが、本当にぼくには理解が出来ないのです。 何故あなたがたの論理が許されて、ぼくの論理が認められないのか。

曲がらねば世が渡られぬ、とはいいますが曲がらなくても世が渡れる方法を考えたり そもそも世を渡らないという選択肢を取るのがいけないことなのでしょうか?

変わるということが常にポジティブな結果になるわけじゃない以上、個人の判断で変わらないかわりに近づかないという方法をぼくが生存戦略として採用するのはそこまで非難されるないようなのか?と考えてしまいます。

なにかをなしてもいない人間がなにをいってるんだ!という知人の声が聴こえてくるようですがなにかをなせば全てが許されるんでしょうか。

何を言ったかではなく、誰が言ったかが重要だという話しはよく目に、あるいは耳にしますがそれはなにも何かの部分を疎かにしてもいい免罪符ではないわけです。

しかしながらボク自身はその「なにか」を成し遂げていないためきっと知人にはなにも響かないのでしょう。 恐らくは、その価値観の違いこそがぼくと知人の間にある深い深い溝なのだと思います。 今までは一応それなりに敬意を払っていたつもりでしたがそうではなくただその深い溝から目を背けていたのだと今回の一件で気付かされました。

ではどうすれば知人に対してぼくの意見や考えを認めさせることが出来るのか? つまるところ、ぼくが納得いかないのは知人によるマッチョイズムな意見を押し付けられるという理不尽さに対する不快感であり、納得のいかなさであるわけです。

これには関する解答は非常に簡単で、知人よりも成果をあげてしまえばいい、という結論になります。 知人は資本主義的な面において非常に素直な人種で、それは以前から言葉の端々から感じていました。 なのでこの資本主義的な部分で知人を大きく突き放す成果を打ち立てればぼくの発言に重みがでることでしょう。

「ぼくはこの論理でこれだけの成果を出しましたよ、あなたはどうですか?」と。

これは詰まるところ知人のステージに立つということなのですがきっとそうすることでしか知人はぼくを認めてくれないだろうと思いますし、この点に関してはほぼ確信めいています。

見返してやる!というような恨み節からではありませんが、ボク自身が納得したいためにもこの成果の部分で打ち負かしてやろう!といま強く心に感じています。

恐らく知人はその頃には「そんなこともあったかな?」と考えていると思いますがソレに関しては構いません、ぼくがボク自身に対して納得したいのですから。

以上。