イシューからはじめよ―知的生産の「シンプルな本質」

イシューからはじめよ―知的生産の「シンプルな本質」

イシューからはじめよ―知的生産の「シンプルな本質」

鴨川で半裸になりながクッソ熱い中、読了した。 本日は良い天候に恵まれました。

一般に「イシューとはなんぞや?」と答えれるひとは恐らく半分くらいじゃないかと思う。 かく言うぼくもイシュー?ああgithubにあるissueのことね?課題とか問題とかそんなんじゃねえの???と思ってた。 この本ではイシューとはそのようなものとは全く別次元のものとして扱われている、この点を勘違いしてしまうと本著は非常に退屈なものになってしまうだろうと思われる。

本著のおよそ7割はそのイシューについて語られているといっても過言ではない。 万言を費やす価値があると著者は考えたのだろうと思う。

然るにぼくはというとはっきりいってまだイシューが理解できているとは到底言えない状態だと明言する。 これは本著が悪いというわけではなく本著の最後に書かれている↓が全てを物語っていると思われる。

結局のところ、食べたことのないものの味はいくら本を読み、映像を見てもわからない。自転車に乗ったことのない人に乗ったときの感覚はわからない。恋をしたことのない人に恋する気持ちはわからない。イシューの探求もこれらと同じだ。

イシューとはなにか?

本著のおよそ7割を費やして語られているであろうイシューとはなにか? もしかしたら著者の考えているイシューとはズレてしまっているのかもしれないがぼくは「本当に、どうしようもなく解決すべき問題、またはその本質的な課題」だと理解した。

ぼくは自転車にのってダラダラと走っているときにしばしば「人類は何故ここまで繁栄しても戦争をやめることができないのだろうか?」とか「学問というものは本質的になんであるか?」といった漠然とした問いを頭の中だけで展開することがある。 だいたいその直前などに目にした大きな社会情勢を考えることが多いように思う。

ぼくにとってはこれは頭のスイッチ切り替えを行う儀式のようなもので問いそのものに意味があるわけではないのだがずばり本著でこのことに言及されていて驚きと少しの理解を得ることが出来た。

曰く、

僕の考えるこの2つの違いは次のようなものだ。 「悩む」=「答えが出ない」という前提のもとに、「考えるフリ」をすること 「考える」=「答えが出ること」という前提のもとに、建設的に考えを組み立てること

最初この文章を読んでもいまいちなにを言っているのかわからないなあと感じていたのだが読み進めていくうちになんとなくまだまだ感覚的ではあるがわかってきたような気がしてきた。 ちなみに読んだ当初のメモによると「個人的に「考える」は論理的に問題提起と解決を模索することだと思う」と書かれている。今は少し違う。 何故違うのかは後述したいと思う。

バリューとはなにか?

知人や素晴らしいとぼくが感じている幾人ものエンジニアのひとが「バリュー」という言葉をまれによく口にされている。 これを聞いていた当初と本著を読み終えたあとではその言葉に対する重みが全然変わってしまっていることに気づいた。 バリューを求めるにあたって↓の方程式を理解していないと通じないと思うため引用させてもらう、どうもこの方程式は有名らしいがぼくは知らなかった…恥かしいことなのだろう。

生産性 = アウトプット/インプット = 成果/投下した労力・時間

ぼくは今まで「バリュー」とは「質の高い仕事」であると認識していた、たまたまなのかバリューという言葉が内包する範囲が大きいためかその文脈で読み解いても特に不自然さを感じることがなかったためそうなのだろうと勝手に思い込んでいた。 ところが本著ではさはあらじと一刀両断に切り捨てている、曰く「それはバリューを質に言い換えているだけだ」と。ズンバラリン。

本著によるバリューとは「イシューの質」と「解の質」この2軸が高い水準であることだと説明される。 このことは縦軸が解の質で、横軸がイシュー度というマトリクスで表現されている。

この説明だけでは抽象的で恐らくなんのことかわからないことだろうと思う、安心していいこの本を最初読んだときぼくもそうだった。 今は違うか?どうだろうか、まだ抽象度が高いように自分では感じている。だけれども読んでいた当初よりはその言葉の意味を理解できているようにも感じる。

そして最もぼくがこの章で重要だと感じたのが次の1文だ。

ここで絶対にやってはならないのが「一心不乱に大量の仕事をして右上(高いイシュー度)に行こうとする」ことだ。 「労働量によって上(高い解の質)にいき、左回りで右上(高いイシュー度)に到達しようとする」というこのアプローチを僕は「犬の道」と呼んでいる。

このことに対して心当たりがある人も多いのではないだろうか? 少なくともぼくには心当たりが多すぎるほどにあった。

ぼくは優れたエンジニアではない、だがしかし優れたエンジニアになりたいと思っておりそのために「技術書を読み」「コードを書き」「カンファレンスや勉強会でさまざまな刺激とエッセンスに触れる」、そういった数による方法で目指すべきエンジニアになろうと考えていた。 まさしく「犬の道」だ。

いやそれは違う!という方もいると思うが少なくともぼくにとってはぼくが取っていたこれらの行為は「解の質」を上げるための行為だと自覚してしまった。 他の人もそうであるとは思わない。 ただぼくの状態に関していうのであれば「何故自分が優れたエンジニアではないのか?そのために必要なものはなにか?」を突き詰めるべきだったのだという厳しい現実を目視せざるを得なかった。

これこそがイシューの質であり、本来この質をあげることが最も理にかなっていたのだがぼくはそこから逃げ出したのだ。

そしてその逃げに対する負い目があったこと、ぼく自身が解の質をあげることに対して楽しみを感じる性格や性質だったために変にハマってしまっていたのだと思う。

ところで何故これらの行為が「犬の道」と呼称されるに至ったのだろうか?とぼくは思ったのだけどこれもまあ「悩む」という行為なのかな。

仮設ドリブン

とはいえこれらのことは言葉こそ違うものの似たようなことは自己啓発系の書籍などでも書かれているのかもしれない。 ぼくが本著を特別足らしめているのは以下の1文によるところが大きいのではないかと考えている。

「このイシューとそれに対する仮説が正しいとすると、どんな論理と分析によって検証できるか」と最終的な姿から前倒しで考える。

言葉にすればたったこれだけの話しなのだが、ぼくは今まで多くの人もそうなのではなかろうかと思うが以下のような考え方をしてきた。

  • 「Aという問題がある」
  • 「Bという仮説がある」
  • 「Cという分析結果がある」
  • 「故にDだ」

ところが前述されたものはそうではなく「Bという仮説がある」だとすると「Cという分析結果が必要」であり、それによって「Dという結果」に持っていけるか?という意味合いだとぼくは読み取った。 これはぼくにとって思考のパラダイムを巻き起こした。 これこそが イシューとは何か? で後述するに至ったものだ。

つまりここの例を借りるならば「Bという仮説が成り立つ」と言う前提において「Cの分析」を行うこととなる。 この分析によって「Bという仮説」は成り立たなくともよいのだ、それは詰まるところ新しい発見であり新たな仮説の誕生であると考えることができる!と本著では紹介されている。

ちなみに本著でも書かれているがこの考え方は別に 「結論ありきである」というわけではない ので、その点にだけは注意してもらいたい。

まとめ:

イシューとはなにか?つまるところこの本はそれを問い続けている。 本著で書かれている内容は全ての職業、現場で当てはめることができるわけではないと思う。

ただ知的労働という時間という制約から自由になるためにはほんとうの意味での「問い」とその「解決策」が必要になる。 本著はそれだけを突き詰めているのだろうとぼくは感じた。

この本はマネジメント層に所属する人々に響くものがありそうだなと読了後に感じた。 Elastic Leadershipはぼく個人の直近の経験などからいろいろ明文化できないモヤモヤした部分に輪郭を与えてくれたが 本著ではまだまだ輪郭にぼやけたものを感じる。

これはぼくがまだこの本を読み、理解するに足るだけの実力がないのだろうと思う。 まさしく読むだけでは理解できない、手を動かせということだろうと思う。

いきなりはなかなか難しそうなのだが自分で出来る範囲からイシューを問い、イシューの質を向上させるべく手を動かしていこうと思う。