凡人の強み

最初に

まず最初にこれは書評ではない。
ただ本を読んで、1ヶ月後、1年後への自分がどのようにこの本を読んで感じたか。
あるいは再びこの本を手にした時に今感じていることとどれだけ違いを感じるのかを明確にするためのオナニーだ。
そのことを念頭に置いた上で読むのなら読んで欲しい。
個人的には読まなくてもいいと思っている、ぼくのオナニーな文章を読むよりも著作を手にとって読んだほうが時間もその価値も遥かに合理的だろうと思う。

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経緯と感想

先日、「凡人の強み」という書籍を父から強く勧められて読んだ。
一言でこの本を評するなら「この本、いいぞ…」という点に尽きる。

著者はぼくと同じ年代、あるいは野球に対して少しでも興味がある人なら誰もが知っているであろう知将として知られる野村克也氏。

ぼく自身はこの著者は正直なところあまり好きでない、いやはっきり言ってしまえば嫌悪している。
なので勧められた際に「ああ、なんだ野村克也の本か…」と思ったくらいだ。
だがその際に父から「この本は今のお前に響くものがあるはずだ」と言われたこと、
そして新書サイズだったのでおよそ2時間半もせず読み切れるだろうことからとりあえず読んでみるかという気になった。
とくに拒否すべき点がなかったことも理由のひとつかもしれない。
そしてそのことは正解だったと今は感じている。

そんなわけでこの著作を手に取ったときのボクの心境はあまり乗り気ではなかった。とりあえず勧められたので読んでみる以上の感情はなかったのだ。
ところがこの本の冒頭を読んでみると途端にその魅力(著者本人ではなく著作だが)にのめり込むこととなり、一気呵成に読了することとなった。
読了後の感想としては、ぼくが見てきた野村克也という人物はテレビによって脚色された人物像だったのだな。
野村克也氏自体はやはりまだ好きにはなれないがその思想や哲学にはなかなか感じ入るものがあり、ボク自身の考え方や方向性と同一のものを感じ思い直した次第である。

示唆に富んだフレーズ集

以下にぼくが読んでいる最中に気になった、あるいは共感したり日々ぼくが考えていたりと
エンジニアであるボクの身にも示唆に富んでいると感じたフレーズがいくつも散見できたのでそれらを羅列しておく。

この羅列に全く共感できない、あるいは興味を惹かれないということであればこの場で読むのをやめることをオススメする。

  1. P42 苦労は努力に昇華できてこそ初めて価値を持ち、周りからも認められるのである

  2. P46 「どれだけ努力したか」という努力の徹底度と、「正しい努力ができているか」という努力の中身である

  3. P78 人は挫折をして暗闇のなかに放り込まれると必死で光を求めようとする

  4. P80 みんなが成長を目指して戦っている競争社会において現状維持であることは後退を意味する

  5. P84 あれこれと教えたがるコーチは基本的に駄目なコーチだからである(中略)つまり「もっと自分を評価してほしい」という自己愛から、そういう行動に出ているのである。コーチ業は選手と違って、何割打ったとか何勝したかといった数字で評価をされにくい職業である。だから選手のことを差し置いてついつい目立ちやすい自己アピールをしてしまいがちなのだ。

  6. P160 未来を見据えて準備を怠らない人だけが突然の変化が身に起きても柔軟に生き抜くことができるのである。

  7. P162 私は「キャッチャーとは」「評論家とは」といったように「とは?」と己に問いかけることが大切だと考える

  8. P223 一ヶ月に一度でもいいから「ああ、やっぱりこの監督は違うな」と思わせるひと言が言えるかどうかが大事なのだ

野村克也という人物、あるいはその思想的、哲学的な考えに関して

この本の良い、あるいはすごいところは徹頭徹尾、野村克也という人物は大した才能のない凡人であるという一事を貫き通しているところだろう。
世の中に才能のあるものは数多くいるものの天才と呼ばれる人間はその才あるものの中から更に厳選されたエリートであり、人物である。
ところがこの著作では凡人が如何にその天才に立ち向かうのか?
その哲学的思想について繰り返し、あるいは自身の経験を交えた仮定と結果が語られているのである。

古代中国に孫武という兵法家がいる、孫子兵法書の著者であるとされる人物だ。
この兵法書、実に有名なのでどこかで1度は耳にしたことがあるかと思う、あるいは孫子兵法書とは知らず耳に目にしていることだろう。
以前なにかの書籍かなにかでこの兵法書が今なお絶賛される理由は具体的な内容に従事しないコンセプトを語っていることにある…というようなことが書かれていたと記憶している。
一言一句間違いがない、とはいえないがニュアンスとしてはそのようなことが書かれていたかと思う。
そしてこの凡人の強みという著書も「凡人が如何にして才あるものに立ち向かうか?」のコンセプトを語っている。
ただそれが孫子兵法書であり、野村克也は野球を交えた自身の思想哲学書だったという違いなのだ。
(書き手としての力量差などに違いはあるだろうけども!)

内容としては至極当然であり、特別に野村克也だからこそ書けた!というようなものはない。
ごくごく当たり前で、だからこそ実践することが難しい事柄を自身の哲学や考え方を交えつつ解釈しているだけだ。

ただ1点この著作を褒めるならば何を褒めるか?と問われたとするならばぼくは「主役が野村克也氏でない」点をあげる。これだけは間違いなく評価すべき点であり、評価される点だ。

通常、この手の書籍というのは自分(あるいは自分たち)はこうやった、このようにして自分は他者よりも上位に立つことが出来た!といった点に終始することが多い。というかそういった本が99%を占めているように思う。

ところがこの書籍は違うのだ。主役は自身の教え子であったり同僚、あるいは敵ですらある他球団の選手やコーチ、監督なのだ。
このことがボク自身には非常に新鮮に写り、だからこそ野村克也が自身のことを凡人であると強く感じているのだろうと確信めいた思いを抱かせることとなった。

その典型的な一説をご紹介したいと思う。

「若いうちの苦労は買ってでもしろ」という諺があるがこれは若いうちの苦労こそがその後のブレない生き方を確立する上で欠かせないものだからだ

どこかで、あるいは誰かから誰もが聞いたことのある内容だと思う。
特筆すべき点はこの文章からは見出だせない。
あえていうならばブレない生き方を確立するという言葉はなるほど著者自身の言葉であると言える。
しかしながら重要なのはこのあとに語られた一語によって完成する。

「ただ苦労をした」というだけではなんの値打ちもない

と先の文章の何ページかのちに語られている。
よくブラック企業などで間違った使われ方をしているこの「若いうちの苦労」というやつにそれ自身にはなにも価値がないと評しているのである。
ぼくは最初に件の文章をみたときに「ああ、よくある経営者や指導家が使う言葉で薄っぺらいな」と感じていたのだがそこへ来て、この一語でちゃぶ台をひっくり返されたという思いで読んでいた。 この一語を読んだときにボクの脳裏に閃いたのは小山宙哉宇宙兄弟の1シーンだ。

next.rikunabi.com

本気でやった場合に限るよ。本気の失敗には価値がある

漫画と文庫、言葉の微妙な使い方やニュアンスは異なるものの本質的には同じことを語っているのだ。
この一語によってぼくは一気に野村克也の凡人ワールドへと引き込まれることとなった。

その他にも

苦労は努力に昇華できてこそ初めて価値を持ち、周りからも認められるのである

「どれだけ努力をしたか」という努力の徹底度と「正しい努力ができているか」という努力の中身である

という世の指導者がうまく言語化できていない抽象的な表現に的確な肉付けを行っていることばが著作のあちらこちらに散りばめられているのだ。

これらの言葉だけでは人を変えることはできない。
だがしかしこの著作はこれから這い上がろうと希望を胸に抱いた、あるいは今自分のいるところがどん底でにっちもさっちもいかないと絶望や諦観している人へ1つの指針を示しているのだ。

とはいえ、書かれている内容を鵜呑みにするわけにはいかない。
ぼくが捻くれているだけかもしれないが、これらの著作はどうしたって著者の上澄みを集めて構成されるのだから。
1つの成功の影には無数の失敗があるという言葉を聞いたことがあるかもしれない、あるいは似たような別のことばを何処かで聞いているだろうと思う。
この著作の中ではこの1つの成功を挙げているが残りの失敗についてはあまり語られていないようにぼくは感じた。
(もし万が一、野村克也氏に会うことがあればこの点についてお聞きしてみたいと思う、そのような機会があるのかどうかはわからないが。)

それでもなお、この著作は良いと感じることが出来るのだ。
それは自己満足に走りがちな内容を取り扱かいながらも、あくまで思想哲学的なスタンスを一貫しているからこそそう感じるのだろうと思う。

ぼくは体育会系のノリというか考え方を嫌っている。
いわゆる精神論者が嫌いなのだ。
プロの、それもアスリートの世界ではそういったほんの些細な気力の違いが勝敗をわけることがあるのは理解しているつもりだが多くの場合それらが本当に作用すべきところというのはごく限られた状況だとも考えているからだ。
そんな考えをするボクなので今までもスポーツ選手の自伝や著書はあまり良いと感じることがなかったし、自己満足のオナニー文章を読まされることに辟易としていたくらいだ。

だがこの著作は、そうではない。
断言をしてしまうことでボク自身がリスクを背負うことを理解した上でこの著作は、エンジニアとしてのボクにとっても学び取る価値のある文章になっている。 これは思想的、哲学的内容に従事しているからこそそのように感じられるのだと思う、このように一貫した書き方をしている野村克也氏は一体どれだけの書籍と苦労をしたのだろうか?と思いを馳せるほどだ。

一方、著者は精神が物事に及ぼす影響力そのものはきちんと認めている。
読了前と後でもっとも驚いた点はこの精神に関する野村克也氏の考えだろうか。
彼は著作の中で精神力を「気力」という言葉で度々自らの哲学を語っている、ところがこの気力が最初に出てきたときに著者自身の考えとしてはあまり好きでないのだと書かれている。 これはぼくにはすごく意外だった、失礼ながらこの年代の方々は精神論が大好きだ。
自身より若い者に不甲斐ないところを見つけるや、やれ「気合が足らん」やれ「心の持ちようだ」と宣う。
それが間違いであるとは言わないが、正解であるとは決して言えないとぼくは思っていた。
そしてスポーツ選手はこれらの精神論者的な考え方をする方が多くいるという偏見を持っていたのだ。
(あるいは偏見ではなく著者が異端であるだけかもしれないが)
この物事に対する思考のバランス感覚が絶妙、あるいはボク自身に近いからか文章の端々から感情を揺さぶられることとなった。

「○○とは?」

今現在のぼくは身体を壊してしまい療養と気分転換を兼ねて外に出かけるようにしている。
そんなぼくであるからこそ父はこの書籍を勧めてきたのだろうと思う。
今ぼくは自身のエンジニアとしてのアイデンティティーが大きく揺らいでいる。
それは自身が凡才であり、エンジニアとしての才覚に乏しいと自覚しているからだ。
これでまだ心と身体が丈夫でさえあったならば、そのようなことは考えなくても済んだかもしれない。
だが実際にはぼくは身体を壊し、心を病んでいる。
そのようなぼくが今後もエンジニアとして働くことで同じことにならないのか?といった不安を抱いてしまうのは致し方ないことだと思うし、仮にぼくがエンジニアとして転職をしたいと願ったときに求人している会社やその人事担当者も同じことを考えることだろうと思う。

そのような折にこの書籍を知ることとなったのは幸運だったのかもしれない。
少なくとも漠然としていた、曖昧模糊な思考の乱雑な羅列にある種の方向性を形作ったように感じている。
今後、ぼくがどのような職につくか、あるいは未来を望むのかはわからないが少なくとも今は「エンジニアとは?」と自分に問いかけ続け、正しい努力の中身があるか、努力を徹底しているかを考えながら日々を過ごしていきたいと考えている。

どのような未来が待っているかはわからないがどんな未来になっても準備を怠らないように日々を生き抜こうと思う。
まとめる気が全くない勢いだけでこの内容を書き出したので恐らくなにを言っているのかわからないと思うが未来のぼくがこの文章からなにかを思い出すことを祈っている。
頑張ってくれたまえ、いつかのぼくよ。