あの日やらかした失敗の名前を僕達はまだ知らない

宇宙兄弟という漫画がある。 映画やアニメにもなったしクッソ面白いので多分みんな知っていると思う。

その主人公の1人南波六太がいった有名な台詞の1つに「本気でやった失敗には価値がある」というものがある。

宇宙兄弟はこういう心に刺さる名言いっぱいあるんだけど、その中でもかなり印象深くぼくの心に刺さったのがこの台詞だった。

ところが、この台詞ぼくの心には深く突き刺さったのだが違和感というか抽象度が高くていまいちきちんと言語化できていないように感じることがあった。

つまり 「本気」 とはどういうものか?だ。

もやっとしたものを感じながらも特にハッキリさせるようなことはせず日々を過ごしていたのだけど 本当になにげなく宇宙兄弟の↑の台詞を思いだしたところ、カチリと自分のなかで「本気」の定義がハマった気がしたのですぐさまメモりながら自分の中の考えを書き出してみた。

つまり宇宙兄弟で書かれていた「本気」というのは安全領域の外で行う挑戦のことではないだろうか?というのがぼくの意見だ。

ただの失敗と本気の失敗を区分しようとしたときに基準はどこになるのか? また自分のなかではっきりとそれを区別できているだろうか?と考えたときにこれ以上ピッタリとぼくの中でうまくハマるピースがなかった。

安全領域の外へと向かう挑戦はいわゆる谷という現象を生じさせる。 一時的に効率や生産性が落ちるが、しばらくするとその反動で急激に上昇するというのが谷という現象だ。

この谷の現象に関する説明は本筋でないため割愛する、気になる人はElastic Leadershipを読めばいいんじゃなかろうか。 なんか最近「ElasticLeadership嫁」としかいってない気がするが気にしない。

閑話休題

たまに失敗することで多少なりとも得るものがある、と主張する人がいる。

今回のことでぼくはこれが誤りであると考えるようになった。 元々この考えに関しては否定的な考えだったのだがそういう考え方もあるか、と許容している部分もあったが今回ははっきりと違うと思えるようになった点が大きい。

つまり、それは失敗にすら至ってない現象だということだ。

失敗すべく失敗したことをぼくは表現するすべを持っていないがそういうことではなかろうかと思う 失敗して得ることができたものは確かにある、がそれは限りなく0に近いものでありほとんど0だと思うのだ。

異論反論はあるだろうが、価値なき失敗はただの惨敗なんじゃないかと考えている。 100-0で負けたという結果だけが残り、その後にも先にもなにも残っていない。これがただ失敗をしている状況なのではないかと思う。

このことから「失敗は成功の元」なんて言われることがあるけどもこれってつまり言葉が足りてない、もしくは誤用なのではないかと思うに至った。 「(安全領域の外へと挑戦した)失敗は成功の元」ということではないかなといまは考えている。

実のところ、この考え方は前々から似たようなことは考えていたがうまく言語化できていなかったことがきちんと自分の中で腑に落ちたということだ。

類似例として「若いうちの苦労は買ってでもしろ」という言葉がある。 ぼく自身はこの言葉がすごく嫌いなのだけど、もしかすると「挑戦した結果の苦労」は価値があるので買ってでも行なえということなのではないか?と少し言葉に対する嫌悪感が和らいだ。

そうするとなんというかこの嫌いな言葉にも一本、筋が通ったように感じた。 筋が通ることで、この言葉が持つニュアンスやエッセンスが少し変わったと感じている。

ぼくの中で「すごく嫌い」から「認めてはないがいてもいい」という感じに変化した。 これで伝わるか全然わからんが。

もしこれこそが発言者(誰だか寡聞にして存じ上げないが)の本意だったのだとすると随分曲解された意図で使用されてきたのだなと思う。 「お客様は神様です」のように発言者の意図とズレた解釈がされてしまうのは悲しいことだとぼくは思う。

思うに歴史上の偉人や英雄と言われる人々は必ずといていいほど大きな失敗を経験しているように思う。 (成功だけで上り詰める人間が存在するわけがないから当たり前といえば当たり前なわけだが。)

そしてその失敗のほとんどが「なにか大きなものに対する挑戦」ではなかっただろうかと考えるに至った。 例えば曹操織田信長坂本龍馬新撰組

有名どころだけだが歴史上に名を残すひとは「なにかに抗おうとしたひと」と言い換えることができるように思う。 それは当時の腐敗した政治や特権であったり国をひっくり返すクーデターだったり反政府組織だったりと実にバラエティーに富んでいる。

文化や風習、益体もない慣習や当時の常識。 既得権益のような実のあるものから社会構造、宗教的思想や宗教観。

それらに抗うことは大きなリスクであったはずなのに彼、彼女らは時に失敗しながらも挑戦し続けたからこそ、いまなお歴史上に燦然と輝く存在として多くの物語の題材になっているのだと思う。

彼・彼女らからぼくのような凡人が学び得ることがあるとすれば「本気でリスクを背負い挑戦する」ことではないかなとちょっと考えている。

安全領域の外側へ挑戦するのは怖いし不安だ。 だけどもそもそもぼくのような凡人のことを気にかけているのは知人や友人、家族くらいのものだし挑戦しても得るものはあっても失うものは然程ないのではないか?と理屈では理解している。 そうはいっても人間は見栄の生き物なのでそれを失うことに対して恐怖を感じてしまうのも否定できない。

ぼくは恥ずかしい人間でありたいといま思うのです。