頑張るということをしたくないという話しをしました

ことの発端はお酒の席での雑談だったのだけど後々考えてみるとこれは一考する余地があるように感じたのでまとめておこうと思う。

誤解されそうなタイトルなので補足すると努力放棄するということではなく、仕事をするうえで頑張るという評価軸は正しくないのではないか?と考えているという話しをしたぞということです。

事の発端:

どういう話しの流れだったのかもう思い出せないのだけど先月末あたりに会社の飲み会の最後のほうに同僚がぼくを「そういえば最近頑張ってますよね?」と評価してくれたことに端を発するのがきっかけだったように思う。

それに対して「ぼくは頑張るということをしたくないと考えていて、何故なら頑張るというのは自己満足の域を出ないと思っているのでそういうエモーショナルな観点から評価されたくない。」と返したんだという流れだったような気がする。

ぼく自身はお酒を飲んでいなかったのだけどしばらく時間が空いてしまったので正確なところは覚えていない。 ただこの件で反省していることがあってもう少し言い方というか表現を変えることができなかったかな?という気持ちがある。

君の頑張りを私は評価しています!というポジティブな意見に対して反論してしまっているので「評価してもらって嬉しいけどもぼくは頑張りではなく成果を出してそこで評価されるようになりたい」という感じに言い換えれたら良かったのになーという気持ちに後日なった。

もしかすると本人は気にしていないのかもしれないがぼくはこの手の発言したあとで大いに気にしてしまうことがあり、その辺り本当に気遣いができない人間だと思っている。

とまれそこはこの話しの本質でないのでここまでにするが何故ぼくが頑張るという言葉に過剰反応してしまったのかという点に関していくつか理由がある。

  • 1つ目は、以前働いていた会社で「頑張るのは当たり前」という言葉が飛び交っていたことに対する不信感があったこと。
  • 2つ目は、ぼく自身は頑張っているというよりは仕事に対して真剣に取り組んでいるだけであって特段頑張っているつもりがなかったこと。
  • 3つ目が、ぼく自身が頑張るというエモーショナルな観点から評価されるのが歪だと感じていて、それを仕事の評価に取り込んでほしくないと思っていたこと。

他にも細々したことがあるのかもしれないが大きくはこの3つが原因かなとみている。

「頑張る」という不信感

頑張るという言葉は非常に便利だ。 日本語のこういうファジーな表現は非常に使い勝手が良いし日本語の優れた点だと思う。

とはいえ、頑張るというのは常日頃から行っているのが当たり前だと息切れをするのではないかとぼくは思っていて、つまり頑張るというのはここぞというときにだけ使うべき必殺技のようなものだというのがぼく個人の見解であり、そうありたいと願っている。

なので頑張っていない状況で働いている時間だけをみて「頑張っている」という評価は不当、あるいはフェアでないと感じたのだろうと思う。 こう書くと怒っているようなニュアンスに受け取る人もいるかもしれないが、ぼく個人の感情としては怒りではなくフェアでないので正しい評価に戻すという印象が近い。

さて、そこで件の頑張るのは当たり前という件に戻る。 頑張るのが当たり前という言葉はかなり語弊があるとぼくは思う。

頑張るのが状態化しているのならそれは頑張っていないことに等しいというのがぼくの考えであり、 期待しているのは頑張るという過程の行為に対する時間や労力ではなく真剣とか真面目とか真摯とか仕事に対する姿勢を問われていると思うのでこの言葉は選択を間違えているのだとぼくは考えている。

例えば5時間かけて苦悩して問題を解決した人と片手間に鼻くそほじりながら15分くらいで問題を解決した人を第三者が見た場合にどう感じるか?という問題がある。

ぼくらのようなエンジニアやクリエイターであれば、苦労した時間が必ずしも成果に対して比例しないので後者のほうが効率よく作業をしたとみなす傾向がある。 そう、あくまでそれを視界にいれていなければ。

文字だとそんなの後者を評価すればいいじゃんとなるのだけど現実にそういう苦労する姿をみてしまうとそれだけでバイアスが自覚、無自覚を問わず働いてしまう。

そこには「頑張っている」というバイアスがかかっている。

苦労をして問題を解決したことに対して尊さを感じていたり、あるいは問題解決そのものよりも苦労することそのものに価値が生まれてしまっているのかもしれない。

人間にとって苦労することはわかりやすい指標なのかもしれない。

苦労しないように苦労をした場合その過程を知らなければ検知することができない、世界一有名な箱の中の猫のようなものだ。 観測されるまでその事実はなかったものとして扱われる、なんという理不尽!

真剣に向き合うことは頑張りではない

努力は報われるべきだし、その点が評価されないのは不当だと思う。 先の例でいうならば仕事という観点で見た場合に評価されるべきは後者であるとぼくは考えている。

仕事の評価という意味においてこの「頑張る」というバイアスは正しい評価を歪ませてしまうので悪、というと語調が強すぎるが良くないものだと考えている。

仕事の評価というのは究極的にいうなら会社の利益にどれくらい貢献したのかだと思っている。 会社は言うまでもなく営利企業なので利益を追求するべき組織だ。

とはいえ、それだけだと目に見えるようになった数字しかみない存在になってしまう。

これの悪い例としてよく上がるのがノルマだろうと思う。 ノルマという制度、もしくは仕組みそのものは悪いわけではないのだと思うがその運用を人間がやると多くの場合、悪化するのではないかとぼくは考える。

ぼくが知るノルマの悪い点は数字を絶対化しすぎていて数字化できない部分で会社の利益に反する行いが横行してしまいがちだということだ。

数字上は良くなっているはずなのに実態は悪化しているという状況はこの数字外の部分で会社に不利益を与えてしまっているからではないだろうか。

そういう思いが根底にあったのでつい過剰に反応してしまったのだと思う。 ぼくは評価はフェアであってほしい、あるべきだと考えているのでそこに無用なバイアスをかけてほしくなかった。

それがポジティブな面であってもそれを許してしまうとネガティブな面のケースでもバイアスがかかるのを許してしまうのが人間だ、ぼくは人間を、特に自分という人間を最も信用していない。

そのため評価に対して「頑張る」というバイアスをかけるのには反対だと考えている。

仕事に対して真剣さや真面目さは必要だと思う、但し仕事に頑張るという方向性を持ち込むのは悪手でむしろ頑張らなくても良いようにしていくのが本質的な仕事の価値ではないかなと考える。 その点においてもやはり頑張るという曖昧な努力目標を仕事の持ち込むべきではないと思う。

頑張るという評価はエモーショナル

頑張るってものすごく感情面に左右された評価だと思っていて、それが大きく影響されるのがフェアでないなと考えている。

同じ労力で2時間の作業をした場合に片方が苦悩しているアピールをしているケースと淡々と仕事をしているアピールをしていた場合により頑張っていると感じるのは前者なわけ。 だとするとあまりよい表現ではないけど演技力のあるほうが評価されるということになる。

自己アピールも能力の一つだとは思うし、それはそれでその人の持つスキルや属人性の一つと言えないこともないと思うのだけど 作業や仕事、やっていることに対してそういった演出によるバイアスがかかってしまうとそれが苦手な人は不満を持つんじゃないかな? 同じくらい苦労しているのに彼、彼女は大げさにアピールすることで自分よりも良い評価を得ているみたいな。

「それも1つの生存競争における闘い方だろう?」という人もいる、それはそのとおりだと思う。 だけどそれに左右される評価式は果たして正しいのだろうか?

ぼくはその式に欠陥があり、不純物を混ぜ込んでしまっていると思う。

なので不純物であるエモーショナルなノイズを除去して俎上に載せましょうというのが理想形だと思うんだよね。 実際には努力したこと、挑戦したことは評価されるべきだと考えているのでノイズを全て排除してしまうと今度は逆にその評価式がおかしくなってしまう。

我々は飲み水がほしいのであって工業精製水がほしいのではない、みたいな感じだろうか? 同じ水という区分ではあるけど必要なミネラルや成分までも排除してしまうと今度は目的を達成することができない、あるいは目的は達せられるが付加価値がなくなってしまうという感じだろうか?

頑張るというのはエモーショナルでものすごくファジー、曖昧な表現なのだけど、努力するには必ず誰が?なにを?という主語と目的語が明確になっていなければならないと思っている。

頑張るはそれらが明確化しなくても使えてしまう。

悪い言い方をすれば具体的な目的、目標もなく逃げれてしまうので評価という点においては不適切だろう。 その点努力するは目標設定したうえでの宣言、コミットメントなのでエモーショナルさはさほど含まれていないというのがぼく自身の認識である。

現実にはそうではないのだけどぼくはそう切り分けて考えているという話しなのでその辺はどうでもいい。

まとめ:

頑張るという日本語はすごくファジーでエモーショナルなので使いやすく便利なのだけどぼくはあまり好きではない。

それよりはぼくが作ったものに対して「使いやすい」「もっとこうしてほしい」「この機能があるおかげで助かった」「こういう機能があると嬉しい」という評価のほうが個人的には嬉しいし、正当でフェアな評価だと思うのでそういう点で評価されるように自分の考えや価値観をまず知ってもらうよう努力していこうと思う。

というようなことを考えていたのでまず第一歩としてここに書き出したということである。