カンファレンスの締め言葉にムズムズしながら考えていたこと

カンファレンスの締めの言葉でよく聞く「まずは一歩踏み出す勇気を持ってください!そうすれば世界が変わります!」ってやつ。

これを聞くたびに、なんとなくムズムズしません? ぼくは心に小さなしこりが残っていて、これがずっと気になっている。 最近ようやく自問自答しながらぼんやりと言語化できてきたので書き残しておこうと思う。

そもそも「勇気」ってなんなんだろう

最初にぼくの結論からいってしまうと、「勇気」とは状態の一つでしかなく、それ自体に良い悪いはない。 そして、外部要因に大きく影響されるものだという前提がある。

あるときは勇気を持てても、別のシチュエーションでは全然持てないとか、そんなことはよくある。 体調が悪いとき、気力が落ちているとき、全然知らない人たちの輪の中に放り込まれたとき。 環境や自分自身のコンディション、周りにいる人の影響がモロに出る。

つまり、スキルのような再現性の高さはない。

じゃあなんで「あの人は勇気がある人だ」と感じるのか。 なんかスッキリしないよね。

「再現性が高い人」との差はどこにある

正確に言い換えると、「勇気ある決断ができる」という状態を継続的に作り出せる人がいる。 その人たちとぼくで何が違うんだろう、という話。

(実際には何もかもが違うんだけど)なんとなく見えてきたのが「自分の弱さから逃げない」という点が大きく違いそう。

ぼくはまあきついことや厳しいことがあるとすぐに逃げたくなる逃げ癖がある。 これは悪癖であると自覚はしているんだけど、なかなか治らない。それはそう。 そんな簡単に悪癖が治るなら人類はここまで拗らせてない。もっとスマートに発展していたと思う。 何千年も前から「最近の若者は……」みたいな進歩のない拗らせをしているってことは本質的に人間の弱さは克服されていないのだと思う。

閑話休題。 一方で昇進したり、自分には無理だと思うことに挑戦している人を観察してみると「不安はあるんだけど、そこから逃げずに自分のやりたいこと(もしくはやらなければいけないと使命感に燃えていること)に挑戦している」ようにみえる。

不安にはマトリクスがあるんじゃないかとぼくは思っている。 他責思考/自責思考、外的要因/内的要因の組み合わせのような四象限。 今回の話でいうと「内的要因×自責思考」、つまり自分の弱さにどう向き合うか?という話になる気がする。

それができる人というのはいわゆるGRITが高いのだろう。

GRITが高い人って、なんだかんだ文句を言っていても「どうやって達成するか」という点にフォーカスしているから、失敗しても「また任せたい」と思えたり、一緒に働きたいって思いやすい。 逆にGRITが低い人が意思決定者だと、成功しても失敗してもやっぱり不安……というか不信みたいな感覚が残ることがある。心当たりはあるはずだ。 というかどちらかというと働いているときは無視できるけど一度離れるともう一度組みたいと思えないような不快さのようなものがある。 ちなみに殆どの人はこの不快さを持っており、また働きたいと思える人は本当にごく僅かだといっておきたい。

結局のところ、陳腐な言葉だけど「自分というこの世で一番の強敵に向き合えることが本当の勇気」ではないかという仮説にたどり着いた。

で、カンファレンスのあのムズムズはなんだったのか

結局ムズムズとしたあの奇妙な感覚はどこから生まれたのか?ってところは今のところ解明されていない。 んで、ふと思ったんだけど「じゃあどうやったらその弱さに向き合えるんだっけ?」が、あの締めの言葉では綺麗にすっ飛ばされているんじゃないだろうか。

だから「おいおい何綺麗にまとめて逃げようとしてんだオラァ!」という気持ちが、スッキリとしない気持ちになり、それが放置されたことでムズムズになっていたんだと思う。ムズムズ。 答えの手前で話を終わらせて満足しているように見えたのが、ムズムズの正体だったんじゃないか?というのがぼくのたどり着いた推測だ。

じゃあ向き合い方はどうするのか

基本的には自分を客観視し続けて、そのために何をするか。どうすると良くなるかを問い続けること、だとぼくは思う。 っていうかそれくらいしかできないと思うし。

なんだか「目標設定みたいな話になってきたな」という感じがするし、そういう話をしたいわけでもない。 自分だったらどうするか?を考えたところ、自分自身と向き合う時間を作る、それを頭の中だけではなくアウトプットすることではないか?と考えた。

個人的にはバレットジャーナルのようなものをするといいんじゃないかとこのときふと思った。 自分が苦手だと思うこと、得意だと思うこと、改善できたこと、改善できなかったこと。 そういうのをバーっと思いつくままに書き続けていく。

書くのが苦手な人は録音でもいい。 とにかく何かしらの形でアウトプットして、自分の内心からアウトプットすることで、思考を整理し、アウトプットされたものを見たり聞いたりすることで、さらに自分自身の中に強いインプットフィードバックの循環をもたらすのが大事なんじゃないかと思う。

いま100できないことがあっても、それを続けていった先の半年後・1年後に50になっていたら「勇気を持って踏み出せた」といえるしね。

個人的にこの手の話で気をつけたほうがいいなと思うの手法にこだわりすぎないこと。 誰かと話してそれを録音させてもらうでも、テキストに書き出す(ぼくはこっちのほうが得意だし好き)でも、なんでもいい。 とにかく自分が継続できる方法を見つけるのが先だと思う。

痛みの予測ができるようになることが大事

もう一つ、書きながら気づいたことがある。

向き合うことで痛みに「鈍くなる」という話ではないんだろうと感じたことだ。 どちらかというと痛みをより正確に予測できるようになるというほうが近い気がする。

不意打ちは思っているよりも衝撃を受ける。 だって身構えることができないので、ダメージが100%通ってしまう。 でも身構えることができれば、100%のダメージのうち90%に落とせるかもしれない。

積もり積もると、そういう痛みの予測・痛みとの向き合い方が強くなっていった先に不安のパーセンテージがドンドン下がっていくんじゃないか? そして、あるしきい値を超えたときに「勇気の振り絞り方」が生まれるのか、上回るのかもしれない……というようなことをお風呂に入ったり、町中を歩いたり、このブログを書きながら考えていた。

おわりに

書きながらふと思ったが、「勇気とはなんか」の答えを実は自分でもすでにわかっていたのかもしれない。

ただ、わかっているのだけど、そこに向き合うと「向き合い続けられなかった自分」を直視することになる。 それは自縄自縛な痛みを伴う。これは体の痛みでも心の痛みでもなく、成長の痛みなんじゃなかろうか。 未熟な自分、理想でない自分、強い自分と弱い自分のギャップなどなど。そういう認知の歪みが生み出す痛みというものにぼくのような人間は殊の外弱いのかもしれない。 ポケモンとかの弱点属性なのかも。得意なやつもいない気がするけど。

さて。 さすがにそろそろ締めくくるとする。 カンファレンスで「勇気を持ってください」という言葉を聞いてムズムズしていた本当の理由は、自分自身がまだそこに向き合いきれていないことへの苛立ちだったんじゃないかな、と今は思う。

とくに結論はないんだけど、なんとなーく書きながらこういうことかな?という気持ちにはなった。 今後どうするといいかに関しては弱い自分と向き合って問い続けていくだけだろう。 逃げてもいいんだけど、逃げ続けてもそれは陽炎のようにつきまとうのでどこかで「えいやっ!」と振り向かないといけない。 そのための準備をしていると思いながら、痛みと向き合っていかないといけないんだろうね。

おしまい。