意思表明と平成の恥は平成のうちに断捨離していきましょうという話

gateau.hatenablog.com

もともと最近のインターネット上での発言などで女性をバカにするような話があがっていたり これはセクハラというのは厳しいのでは?と思う発言を見かけることが本当に増えた。

でも加害者は被害者の気持ちを完全に理解することはできないのでそうするとマジョリティー側が注意しないといけなくてただそれの行き過ぎたパターンも散見されて「それの向かう先はディストピアなのでは?」と思うこともあり、本当に難しい。 そしてぼくは男性で日本社会ではマジョリティー側に属しているので本当の意味で女性の横にたってご高説を垂れることはできないなといつも思ってしまうところがある。

そしてマイノリティー側から声をあげるということは非常に難しい。 心理的にも周りの反応的にも、もしかしたら自分が間違っているんじゃないか?と思ってしまうのもやむなしだと思う。 そういう意味でこのエントリが書かれた経緯などに対してぼくは敬意を払いたいと思っているし、もっとこういう議論が活発になって無知からくる差別がなくなってほしいと思っている。

このブログを書いている理由としては「あなたは何も間違っていない」ということを伝えたいなと衝動的に思ったので非常にセンシティブで、 一朝一夕では解決しないと思うしぼく自身に関してはなにも直接的なメリットはないけども賛同の声を表明しておこうと思ったということを伝えられたらいいなと思い書いている。

私が怖がっているときに「気にしすぎ、過剰反応だ、お前が○○した・しないのが悪い、それぐらい許せ」など責めないでほしい。

少なくとも被害者側であるはずの人たちにこのような不安や心配を抱えさせてはならないという義憤から書いてる面がある。

なので多分あとから冷静になって読み直したときにぼくはこの文章を呼んで身悶えすることになると思う。少なくとも現時点で羞恥のようなものはあるがそれでも意見表明するべきだと思ってこの文章を書いている。 少なくともよほど問題がある文章を書いていると思わない限りはこのエントリは消さないつもりだ。

正義や怒りで意見を表明するのはあまりよくないと個人的に思っているのだが 少なくともこのような発言をさせてしまうような社会にぼくは所属したくないし、現状存在する問題に対しては改善していってほしいと願っている。 ぼくができることは正直多くも強くもないと思っているがエントリに対する意思表明と賛同くらいはできるのでここで書きなぐっておく。

話が脱線してしまったので戻したいと思う。

件のエントリで↓というのがあってたまに(だと思ってるがもしかしたら嫌がるかたにとっては頻度が高いのかもしれない)Twitter上でやってしまうことがあったのだけどこういうのも確かによくないよねって改めて考えさせられた。

会社Slackの雑談チャンネルにて「童貞の〜」「女子大生飼いたい」など性的な発言が目に入る。(いろんな人で、ままある)

「女子大生飼いたい」とかはどういう文脈で出たのかわからないが正直理解に苦しむ発言でこれをパブリックな場でやったら駄目でしょ、というのが第一印象。 個人的に反省を促されたのが「童貞の〜」という文脈でぼくはこの「童貞」というワードを使うことがある。 自身を揶揄するときによく使っているのだけどこれもあまりよくないかなーと思うことがあったので最近は気づいている限りでは使わないようにしている(徹底して使っていないとまでは言わない)

性別ということで気になったケースが直近で2件あったがこれらも非常に難しいと思っている。 ぼく個人の見解では「“心は女性” 女性トイレの使用認めない国に賠償命令 東京地裁」のニュースは自身のアイデンティティとしての性別が女性であるなら女性トイレを使用を禁止するのは駄目だと思っている。

www3.nhk.or.jp

反面こちらのケースでは革靴はOKでヒールのある靴がNGというのがダブルスタンダードのように感じられて「嫌なことは嫌と伝える」という点で賛同しかねるものがあった。 「きちんと仕事する」服装がOKなら「女性が女性らしく振る舞う」こともOKになってしまうと考えるからだ。

そういえばぼくが子供の頃に父親が「NYのサラリーマンはスーツにスニーカーを履いている、これだからアメリカ人は!」というような話をニュースかなにかでみて賛同していたことを覚えている。 当時子供だったぼくはスーツにスニーカーがドレスコード的な意味でNGなのだろうと思いこんでいたのだがいま社会人になって思うことはこのニューヨーカーと呼ばれた人たちは非常に合理的だったんじゃないか?ということだ。 なにより彼ら、彼女らのすごい点は苦痛を許容するのではなく自分で工夫してしまうその精神性にあるのではないかと言う点で感動すら覚えてしまう。

なにが言いたいかというと社会はもっと寛容であってほしいということだ。 このドレスコード的な問題に関しては少し違うかもしれないがセクハラやトランスジェンダーに関しては無理解からくるハラスメント的側面があると思っている。

それをされることで嫌がる人が確実にいて何故そう感じるのかをしっかり確実に行っていくしか無いとぼく自身は考えている。 その間マイノリティーの人たちには我慢を強いることになってしまうのが心苦しい面があるが黒人差別などに関しても少しずつ歩み寄って改善されている面があると思うのでターニングポイントを超えるまでは歯を食いしばるしかないのかなと思う。 マジョリティーであるぼくが出来るとしたら #rebuildfm でNさんことひろしまさんが確か仰っていたと思うんだけど「マジョリティー側から歩み寄るしかない」ということだと思う。

最初はこの歩み寄りがマイノリティー側に優位な状態、つまりやりすぎなくらいしないといけないとそもそも平等にはならないという意見にぼくは非常に感銘を受けたし、今は同様に考えている…つもりだができてるとは思っていない。

「周囲の対応で嬉しかった経験」でも書かれていることは何も特別なことではないけど勇気がいることだと思う。 例えば下ネタで盛り上がってるところでそれをやんわりと辞めましょうとぼくはやんわりというスキルがないので

下ネタなどに乗らず、別の話題にそらせてくれた

このような機転が効いたことはできないなと思う。 そうすると場がしらけてしまうなーとか反感を持たれるんじゃないか?とか不安になると思う。 でもそこで口を噤んでしまうのは結局自分の不利益をマイノリティーに押し付けていることと変わりないと思う。

文中では「いじめに似ている」と評されているがまさに正鵠を射る例えだと感じた。

ここで不安から口を噤んでしまう行為は構図として「直接的ないじめに関与はしていないけど見て見ぬ振りをしているひとたち」と相違ないと思う。 ある意味で一番卑怯な人間だと思うし、ぼくが一番唾棄すべきだと考えている人間なのでこれにだけはなりたくないと思う。 出来るできないではなくやっていかなければいけないことだと思っている。

いじめは駄目なのでやめましょう!が正なのだからセクハラだって同じになっていかないといけないと思う。

勇気とは違うがぼくも女性が怖いというかどう付き合えば(男女の仲という意味ではない)いいのかわからくて不安に思うことがよくある。 これはものすごく単純な理由でぼくがステレオタイプな女性のマッチョイズムっぽい文化を怖がっているという無知からくるものだと分析している。

エンジニア文化に近い文化圏のひとたちは比較的この性別的な問題をある程度共有できていると思っているのであまり性別を意識せずそういうアカウントの人たちなのだなと思ってオンラインでもオフラインでも交流させてもらっている。 ぼくのような人間やめたほうがいいのでは?みたいな人間とも交流してくれている人がたくさんいて非常に助かっている。

ところが文化圏の外にいる人と話すときがものすごく不安になる。 こういうコンテクストがそもそもあるのか?どういう言葉が相手を不快にさせないのか?みたいなことを男女問わず気になってしまい、非常に疲れる。 ただ同性である場合はある程度楽な面があるのも否定しにくい。 少なくともセクハラの心配はほぼしなくていいという安心感がある、反面女性の場合は多くの場合は杞憂であるのだろうけど「ああいう発言をしてしまって不快にならなかっただろうか?」とか「うまく切り返しができず不快に思わせなかっただろうか?」などの心配をしてしまうことがある。

結局この問題は相手の文化を知らないために起こる無用な心配をしてるのだなと「異文化理解力」を呼んだあとでふとしたときに思ったことがある。 会社の同僚や仕事では女性と話せるがプライベートで女性と話すことができないのは会社などでは「仕事」という共通のコンテクストとそれに向かって協力するという前提条件が最初から備わっているから不安に思うことがないんだろうということだ。 なので結局相手を知るという当たり前のことから初めていくことが大事なのかなと改めて考えることとなった。

無理やりまとめ

どうしたらもっと楽に、自由に生きられるのか。 エンジニアをやめた方がいいのか、住む場所を変えた方がいいのか、悩んでいる現在である。

何度もいうがこのような発言を被害者側であるマイノリティーにさせてはいけない。

そんな社会に自分の子供や孫を放り込みたいのか?ぼくなら絶対にごめんである。

ぼく個人ができることなどたかが知れているがこういう意思表明を行うことで少なくとも周知に協力できるのではないかなと思って書いている。 本当は「相談に乗りますよ」というエクスキューズができるといいなと思うけども多分それはぼくよりももっといろんな立場や視点からアドバイス出来る人がたくさんいると思うのでそちらに任せたほうが誰もが幸せになれそうだと思う。 (多分ぼくができるとしたら愚痴はく相手役くらいだと思うのでそれでもよければ付き合いますよレベルだと思う)

少なくとも孤独に悩むような事態自体をなくしていければなと思ってかなり感情的に書きなぐっている。

せっかく元号も変わったのだしこの手の後世に誇れない文化は断捨離していきましょうというお気持ち表明です。