努力の質と量

最近少しだけ努力における質と量について考えることがあったので頭の中を整理しようと思う。

イシューからはじめよでは解の質をx軸、イシュー度をy軸と定めている。 ぼくたちが本質的に解決すべき問題の本質をバリューのある仕事というものは解の質とイシュー度が高い地点 (x,y)=(1,1) にあるものと書かれている。

ここまでは特に異論も反論もないのだが最近そのあとに書かれている「犬の道」についてふとした疑問が湧いた。 犬の道とは解の質を増やしたあとでイシュー度をあげることは難しく、そうすると本来解決すべき問題に辿り着くことができないというものだ。

「何故犬の道なのか?」がわからないが最近ぼくはこの犬の道を負け犬の道と呼んでいる。 負けるべくして負ける選択肢を取る愚か者の行く道という意味で元の犬の道よりもわかりやすいと考えたからだ。 恐らくはもともとそのような意味であったのだろうとは思うが、せめてアンダードッグウェイとか書いてくれればわかりやすいものを…。

閑話休題

話しを元に戻すと解の質を努力の量、イシュー度を努力の質に置き換えれるとぼくは考えている。 そして基本的には本にかかれている通りだとも思っている。

まず最初に「努力の質(イシュー度)」をあげ、その後「努力の量(解の質)」をあげるという手法は正しいがフェイズやタイミングによっては質をあげるための土台となる量が必要になるのではないか?というものだ。

確かにイシュー度をあげてから解の質をあげるというのはなるほど、正しいアプローチであるように感じる。

ところが唯一の例外というタイミングが (x,y)=(0,0) の地点においてのみはこのアプローチは必ずしもあっているとは言えないのではないか?と考えたのだ。

何故そう思ったのかというとこれらの抽象化された単位を具体的に「国語の文章力を鍛える」というイシューを仮に立てたと想定して考えたところ イシュー度にあたる努力の質をあげるためにはまず質を上げるための土台として量をある一定こなす必要があるだろうと考えたからだ。

例えば漢字の読み書きというものは文章力を鍛えると言う問題そのものには何ら貢献をしない。 これは詰まるところ努力の量、つまり解の質であるように考えられる。

文章読解能力を鍛えるために漢字の読み書きを重視するひとはあまりいないだろうと思うのでそこまで的はずれな考えでもないだろう。

ところがこれがそもそも文章に書かれている「漢字が読めない、意味がわからない」状態であればどうか? 漢字の読み書きや意味を知ることにはきちんと意味が生まれるのではないだろうか?

これは恐らくもともとの問題提起が間違っているのだろうと思う。 つまりこの場合のイシューとは「文章を読める能力を身につける」が正しく、その場合単語や漢字の意味を知ることは十分にイシュー度の高い努力の質になり得るのではないか?と考えたのだ。

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この考えは今朝読んだ↑のエントリに多大な影響を受けているのだと思う、特に「スキルを分解する」という項目が。

と考えると努力の質と量、イシュー度と解の質がある時点では量(もしくは解の質)が正しい点が存在するというのは間違いで本質的に解決すべき問題の定義が間違っていたのだという結論になる。 イシューとはこれ以上分解できないレベルになった問題の本質であると考えるとなるほど、定義が誤っていれば解決する手法や手段が異なるのは自明の理だ。

ということは文章力を鍛えるというのは将来的な課題ではあるが、今まさに解決すべき問題の本質ではないということになり、今やるべき本当の問題は「語彙を増やすことで文章を読める下地を作る」ことになる。

つまりイシューからはじめよで書かれている内容のほうが正しく、ぼくがふと思いついたことには重大な問題が潜んでいたということになる。 イシューからはじめるにはまだまだ習熟度が足りていないと実感する形になった。

ということを書きながら考えていたので考え方や感じたことをアウトプットしてブログに残すというのは意外と頭の中を整理するという点において良い手法なのかもしれない。 少なくともぼくにおいては。