忙しくて時間がないは正しくないことが多い……と思っていたのでその時の考えを吐き出してみる

先日、以下の投稿をした。

発表した人の意図を否定する気はないが個人的な経験から「忙しくて時間がない」という表現は正しくないよなぁと思っていたのでその旨を書いた。 ここではブログを書くなどのアウトプットができない人がどのようにしてできるようになるとよいかを考えていると前提を置かせてもらう。 すでに出来ている人には無用の長物だろう。

投稿してから、この発言も誤解の余地があるなと思ったのでこちらに書きながら再度自分自身でも精査をする。 予防線を張る訳では無いが、自分の思考の整理のために書いているので、重複している箇所や一部自己批判しているところがあるかもしれない、またこの意見が絶対に正しいとも思っていないのでそこは留意してほしい。

まず何故、件の発言に至ったかだがこれは「忙しくて時間がない」といってブログや登壇をしない人が時間ができたときに登壇する確率はかなり低いからだ。

いわゆる、可処分時間があるとき皆さんは何をするだろうか? 恐らく普段できないことをしたいと考えると思うが、その中に果たして「ブログを書く」「登壇するための資料作りをする」と答える人はいるのだろうか? ぼくはいてもまれではないかと思っている、だってぼくならやらないし。

このような心理状態を説明する理論があるんじゃないか?と思いはするのだが、残念ながらぼくはそれを知らないため紹介はできない。もし知っていたら教えてほしい。 ともあれ、まとまった時間があると人は「ゆっくり休みたい」や「友人・家族と遊びたい」など自身の欲求の強いものを優先する傾向がある。

これは生物的に全く持って正しいと思う。 何故ならそれだけ普段やりたいと思っていることに歯止めがかかっている状態で我々現代人は生きているということだからだ。

では、まとまった時間に遊んでしまう人はブログを書けないのか? そうではないだろう。 その理論で言うならば役職が高く、仕事がたくさんある人ほど、ブログを書くなどの活動はしにくくなる。

だがしかし、そういったデータは確認されていない(と思う)。 どこかにそういったデータがあればその分析内容も含めてもう少し話題に上がるはずだが、ぼくは過分にしてそれを知らない。 知らないからないとは思わないが、観測範囲に限って言えば現実には「忙しい人ほど、何かしらのアウトプットを発信している」と思っている。

これはいわゆるスキマ時間勉強法のように、まとまった時間でアウトプットするのではなく、スキマ時間に普段考えていることのサマリーを少しずつ書き留めているからではないか?と考えている。

studyhacker.net

ぼくから見たブログを書く人と書かない人の差は「優先順位の高さ」のようにみえる。 この主張の着想は id:Pasta-K さんの以下のブログを読んだ後に「そうかも……」と思うようになった。

blog.pastak.net

根底の問題には、現代人がやりたいことは多種多様であり、またその可処分時間はあらゆる誘惑により壮絶な争奪戦になっていることが挙げられると思う。 SNSやゲームは言うに及ばず、(業務時間外の)仕事のちょっとした連絡や友人・知人との他愛ない雑談、読書する人もいれば、自己啓発のためにセミナーや勉強会、あるいは将来を見据えた投資やその分析をする人など様々だろう。 こういった時間の奪い合いが至るところで行われており、この優先順位の中に「ブログを書く」ことが割って入るためには、優先順位が高くなくてはならない。

例えば、ブログを書かなければ会社での評価が下がり、給与が減ってしまう……となった場合、恐らく内容はどうあれ多くの人はブログを書かなければいけない!と思うだろうし、実際に行動に移すと思う。 だがしかし、これでブログを書いた人たちは今後も報酬をエサとしなければブログを書かないという悪循環に陥ってしまう可能性が非常に高い。

これはアンダーマイニング現象という名前がついている。 外発的動機づけで人を動かそうとすると返って逆効果になることがあるというものだ。(全てのケースにおいてそうなるわけではない)

では、ブログを書く人たちはどのようにして書いているか? (ここからはぼく個人の持論であり、根拠があるわけではない点に留意してほしい。具体的な裏付けなどはあまりない。)

それは、「やったことがあるか」と「やる気を出すか」の2つではないかと思う。

「やったことがあるか」については不確実性の話がわかりやすいだろう。 人は不確実性が高い現象に遭遇すると及び腰になりやすい。 「わからない」ということは人間にとって大きなストレスになりやすいのだ。 これは生物的な反応なのだろうと思う。 原始の世界では知らないものを食べると死ぬ可能性が高かった、現代でもきのこなどはその代表格だろうと思う。 そういった命の危険から遠ざかる行動を取ろうとすると「未知よりも既知を選びやすくなる」という現象に帰結する。

これが本能レベルで刷り込まれているため、基本的にやったことがないものに手を出さないになるのではなかろうか。 あるいは、やったことはあるがその体験が悪かった場合、これを避けることになると思う。 これも本能的な話で、自分を守ろうとする防衛本能が「これは自分を傷つけるもの(あるいは自分にとって損になる)だ」と認識されることで起こる反応だろう。

総じて、やったことがないものはやったことがあるものに比べ、取り組みにくくなる。 だがしかし、ここで矛盾……というか鶏卵問題が生じる。 やったことがない人はやらないと取り組まない。 ところが誰もが最初は「やったことがない」状態からスタートする。 彼、彼女らはどのようにしてこのギャップを乗り越えたのか?

理由は様々あると思う。 再現性という意味でいうと「ブログを書く」までのフローが明快であること、失敗をしても自身に損害が及ばないこと(あるいはそのリスクが低くなっていること)、自身ではコントロールできない外圧的なプレッシャーに晒されていることが大きく影響する。

1つ目のフローが明快であることはわかりやすいと思う。 かつては自分でWebサイトを構築するため、プロバイダと契約したり自宅サーバーを構築する必要があった。 今はどうか?

はてなブログTwitterに代表されるようなマネージドなサービスがある。 Web開発の知識がなくともアカウントを作ればいつでも記事やコメントが投稿できる。 つまり、かつてに比べてブログを始めるためのフローが明快になったと言える。

2つ目、失敗しても自身に損害が及ばないについて。 これは現代で最も大きな障壁になっていると個人的に考えている。

現代では、よくも悪くも情報が拡散される速度がとても速い。 間違えた情報を発信したとき、本人にその意志がなくとも「騙した」と受け取られるケースがある。

特に会社でブログを書くとなると個人で負える責任の範疇を超えやすくなる、自然責任が取れないので書かないという選択をしてしまうのは仕方がないことだと思う。 そして、この抵抗感は会社の規模や知名度が大きくなればなるほど、大きくなりやすい。

こちらはどう対応するとよいのか? これに対しては抜本的な解決策はあまりないと思う。

不正確な情報が発信されないよう質の高いレビューを行う、前提となる条件や情報をできるだけ正確に記載する、誤解されやすい表現を使わない、誰かが言及したくなるような文章を書かない(特にネガティブな感情を想起させるようなもの)、法律はもちろんのこと、法で規制されてるわけではないが社会通念上良くないとされる行動や言論を用いない……あたりに注意するしかない。

しかも、これらの難しいところは自分たちのコンテクストでは問題ないと思っていても、相手(この場合は読者や読者のコメントに反応する人たち)もそうであるとは限らないことだ。

ソフトウェア開発をする会社でブログを書くことはさほど業務に支障をきたす恐れがあると考えられるケースは少ないと思う。 これはソフトウェア開発の業界における慣習によるところが大きい。 慣習というよりはもはや文化だと思うが、それはさておき他社もやっている、なんなら自分たちよりも遥かに優秀で規模の大きな会社が実践しているという情報は大きな安心感をもたらすだろう。 これが他の誰も始めていないことだったなら、きっと我々はもっと慎重になっているはずだ。

抽象的ではあるが、できるだけ自身の損害につながらない防御策を講じることが我々にできることではないかと思う。

3つ目、外圧によるプレッシャーについては前述したアンダーマイニング現象に当たるのではないか?と考えた人もいると思う。

明確にそれとは違うとぼく自身も言えないが外圧が上手くワークすることもある。 例えば、ブログを書くことでキャリアにとってプラスの効果があるとわかるケースだ。

自分と同じくらいの力量だと思っていたメンバーがブログに書いた記事がきっかけで転職した、あるいは書籍化の道を辿ったと聞いたとき、そういったことに憧れがある人は「自分もやらなければいけない」とプレッシャーを感じるケースがある。 このプレッシャーが上手くワークするとブログを書く優先順位が高くなり、実現可能性が高くなる。

恐らく違いは内発的動機づけか外発的動機づけかの違いなのだと思う。 内部からモチベーションが発揮される場合、それによる成功体験には継続性が生まれやすい。 反面、外発的動機づけでは継続性が低くなる傾向があるように見える。 外発的動機づけの場合は報酬を得た段階で本人としては満足してしまい、次がなくなりやすいからではないかと考えている。 内発的動機づけの場合、成功体験を得られたことで「もっとうまくやれば今度も成功する」と次もやってやろう!と考えやすくなるのではないか。

二匹目のドジョウを求めるか、報酬を持ち逃げするかの違いのようにぼくからは見えている。 持ち逃げというと悪いことをしてるかのような書き方だが別にそれ自体は悪いことではないと思う。

ただ元々の話にあった「最初のハードルをどのように乗り越えたのか、更に言うならそこからどうやって継続的にブログを書き続けているのか?」という問いの回答にはならないだけだ。

いい悪いではなく、単純に外発的動機づけではギャップを埋めにくいということなのだと思う。 なので、今回の課題を解決したい人にとって適した回答でないというだけの話だ。

さて、ここまでは「やったことがあるかどうか」について焦点を合わせてきた。 ではその次に当たる「どのようにやる気スイッチを押すか?」だが、これに関してぼくは有益な答えを持ち合わせていない。

ただ、個人的に良いなと思っている取り組みはあるのでそれを紹介しつつ、どのあたりが良いと思ったかを書いていこうと思う。

konifar-zatsu.hatenadiary.jp

id:konifar さんの通勤してるときにブログを書くスタイルはとても良いプラクティスだと思う。

まず第一に腰を据えてじっくり書くことが難しいため、1番主張したい内容だけに絞って発信する必要が生まれやすい。そして、その荒い段階で書き出すことができるという体験がアウトプットの心理的ハードルを下げやすいのではないかと考える。

第二にブログを書くというイベントの発火がルーティン化しやすい型になっている。 オフィスに通勤してる人にとっては「通勤をする、はてなブログやエディタを開く、考えている脳内ダンプを出力する」という型が出来上がる。

時間制限があることでそれに集中できる点も良い。 集中できないときはすっぱり諦めて、別の日に再チャレンジしやすいという点もよい。 これの良い点は失敗をしても損害を受けることがないことだ。 やらなければいけない!というようなプレッシャーを感じすぎないが、ある程度自分の中で書いても良い熱量があれば書けるという程よい圧力がある。

第三に書いたものを没にするにせよ、公開するにせよ自分自身がコントロールしやすい場所においておける。 これはとても大きい。 書いているものをデプロイするまでのリードタイムを如何に減らすかは書き手のモチベーションを保つために重要な要素になる。 そしてこのリードタイムは短ければ短いほどよい。

そういう意味で朝出社する際にある程度書いて、帰りに補足や読み直しを行い体裁を整えれば最寄り駅についたときに公開できるというのはとてもよいリードタイムの設計だと思う。 リードタイムが長くなればなるほど、執筆者に強い主張がなければお蔵入りしておしまいになるだろう。

そういう意味であらゆるきっかけが設計されていて良い。 ……というようなことを考えていた。

気になる点としては、発信に対する雑さが許容されにくくなっていることもある。 自身がしていないとは言わないが、ミスや意図せぬ間違いに対して今は厳しすぎると感じることがある。

誰かのストレスの発散のためにボコボコにされているのは被害者になるのも嫌だし、見るのも嫌だなと思うようになってきた。 とあるジャーナリストが「ゴシップは人間の根源的な感情に根ざした発信なので人気になるためには必要不可欠」というような発言をされていた。

その文脈では「人気が出るためにはどうするといいか?」という問いに対する一つの回答という形だったが現代のインターネットではそれが行き過ぎてしまい、誰かの足を引っ張るために活用されているのではないか? 嫉妬のためのツールに成り果ててはいやしないか?と考えることがある。

そういった負の感情の拡散はあまり意味がない(その場はスッキリするが現実の問題は何も解決しないという意味)ので、もう少し寛容であることが許される仕組みがあるといいなと思う。

というようなことをツラツラと書きながら考えていたのだったという話です。